■
城跡めぐり16−21 幸地グスク跡 中城郡西原町
棚原グスクの南西方向、29号線を南下し、左折れして集落へ。 幸地公民館手前を左に折れしばらくすると幸地児童公園があり、右に折れたわき道を進む。上り坂になり、途中で駐車したが、最後まで車で登り切れる。登ったところに広場があり、北側のこんもりした丘がグスク跡。
史跡 幸地(こうち)グスク 幸地ウスクについては、「遣老説伝」に「幸地グスクの城主は幸地熱田子(こうちあったし)と呼ばれ、腕力も強く人々から恐れられていた。幸地熱田子は隣の津記武多(ちちんた)按司といさかいを起こし、その一族を滅ぼした。訃報を聞いた今帰仁按司があだ討ちにおしかけたが、幸地熱田子の策謀にはまり、殺された。その後、今帰仁按司の息子四人が兵を挙げ、ついに幸地熱田子を滅ぼした」と記されている。 幸地グスクのある丘陵は(標高100m)は南北に長く、本島の東よりにある。この峰が分水嶺で、南方は首里方面へ、北方は、中城方面につながる。グスク内の最高地点に祠が建てられているが、かっては周辺を観察するための櫓台と考えられる。その北東下は30メートル×30メートルほどの広さを持った曲輪(くるわ)となっている。 この曲輪の北よりには井戸があり、居住地化された場所であろう。
このグスクの注目すべき点は、峰の上を通る「峰道」がグスク内を通過することにある。一種の関所的機能を持ち、戦時には道路を封鎖する目的で作られたと考える。幸地グスクは15世紀前半にでき、その後数十年間グスクとして、あるいは関所として、また戦乱期後には領内支配の拠点的な機能も複合的に期待された形で存在した可能性がある。 平成18年3月 西原町教育委員会
歴史の道 首里城と中城城を結ぶ道 西原には、古くから首里から中頭や国頭方面へ向かう道がありました。 西原を通るこの古道は、首里城と中城城を結ぶ道で、首里城から首里石嶺町を通り、本町内に入ると、刻時森(ククジムイ)〜幸地番所跡〜幸地グスク〜今帰仁坂(ビラ:坂田ハイツ東端)〜沖縄キリスト教学院キャンパス内〜上原集落の東端〜中城城に至る、全長12Kmに及ぶ道のりとなっています。
峰の部分を利用していることからも、古い時代の道であることが分かり、三山鼎立時代には重要な街道であったと考えられます。現在、この「歴史の道」は、農道や里道として使われている場所もありますが、一部では道路が寸断されていたり、畑地になっていたり、建物が建っているため、往時の道筋を全てたどることはできません。 平成19年3月 西原町教育委員会
日時 2016年05月07日 23:40 |
固定リンク |
コメント (0)
|
この記事にコメントする(ただし20件を超えると受理できません:現在停止中)
|
|
 自 宅 の 庭 2017年 5月 |
<<
2016年05月
>>
Su |
Mo |
Tu |
We |
Th |
Fr |
Sa |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
|
|
|
|
|
|