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城跡めぐり16−17 渡具知泊城跡 読谷村渡具知
58号線を山田城跡から南下し、嘉手納市内に入る前に右折れし、海側に進んでいくと泊城公園がある。 渡具知泊城跡は、この公園の一部として保存されている。 但し、その表示は、「トゥマイグシク」と表示されている。
トゥマイグシクは別名クマイグシクと呼ばれ、砂浜にはトンネル状の変わった形の岩があります。海に面した景勝地であったことから戦前も行楽客が多く、ムラアシビ(農閑期における集落あげての舞踏会)の時期には渡具知の若者たちの歌や踊りに格好の練習場になったそうです。
また、言い伝えとして、昔々、本部大主の謀反により今帰仁城を追い出された「千代松(のちの丘春)」がここトゥマイグスクまで逃げのび、あだ討ちの機会をうかがったという話が伝わっており、近くの断崖には丘春を葬ったと伝わる墓があります。
読谷村教育委員会
渡具知泊城 今から600年前三山戦国時代中今帰仁城主按司は、臣下本部大主の謀反にあって城奪われる。一時世替りの騒動の中にあったが、按司の嗣子千代松金は名を丘春と改め読谷山間切北谷間切砂辺村へ落ち延び読谷山大木徳武佐で難を遁る丘春仇討の機会を待ち十八年後に旧臣を集め本部大主を討って本懐をとげ、城奪還す。然るに次の代後北山の刃く岶尼芝に攻められ中北山はついに滅んだのである。時の若按司は本部具志堅で死す。隠居の身中曽根按司丘春は戦いに追われ住みなれた読谷山間切に逆戻り当地にて城奪返しの態勢を整えたが力及ばず。ついに当地にて終身す。按司丘春そして臣下の骨玉は東の方鷹の目洞窟に葬れる。以後この一帯を渡具知泊城と称す。 1979年12月22日
日時 2016年05月05日 23:07 |
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