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嘉数高台公園
買い物の帰りに「嘉数高台公園」に寄ってきました。普天間基地が見下ろせる高台にあります。以前(5年ほど前に一度来たことがありましたが、その時は、展望台のある高台には、工事中で入ることが出来ませんでした。
話題のオスプレイの常駐も見えるかもということでの寄り道です。 普天間の展望で有名になってしましましたが、ここは、前の戦争で、壮絶な戦いの場であったことで有名場場所でありますが、時代とともに、接頭語が変わってきております。
嘉数の戦闘
沖縄守備軍である第32軍(球部隊)は、米軍との上陸決戦を避け、司令部のある首里を中心に西原から浦添一帯に洞窟複郭陣地(幾重にも構築した陣地)を設け、持久作戦をとりました。その最前線の陣地がおかれたのが嘉数高地でした。嘉数高地には第32軍指揮下の第62師団(石部隊)独立歩兵第13大隊が主に布陣していました。そして、1945(昭和20)年4月1日、上陸した米軍は早くも4月6日には宜野湾村(当時)の南側に進出し、以後、嘉数高地を含む宇地伯〜我如古〜西原の棚原を結ぶ線で、日米両軍の主力による攻防戦が展開されました。 日本軍は米軍の進路に地雷を敷設し、対戦車砲・臼砲等の重火器で攻撃しました。まだ、急造爆弾を抱えて洗車に体当たりする肉弾戦もありました。米軍戦史には、「嘉数地区で米軍が失った戦車22台というのは、沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった」と記録されています。2週間にもおよぶ戦闘の末、日本軍は浦添の前田高地に撤退しました。 嘉数高地は、沖縄戦における最激戦地のひとつでした。日米両軍の戦死者に加え、多くの地域住民も戦闘に巻き込まれ犠牲になりました。 宜野湾市
日時 2016年04月24日 23:07 |
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